最近、ずっと言葉にならないモヤモヤを抱えていた。
そんな中、散歩をしていて、ふとした違和感に気づいた。
アパート暮らしなはずなのに、停まっている車は高級外車。
もちろん、人それぞれの生き方や価値観がある。
とやかく言うつもりはまったくない。
それでも、
「なぜか引っかかる感覚」が残った。
違和感の正体は、批判ではなかった
最初は、自分の心の狭さなのかとも思った。
でもよく考えてみると、その違和感は
他人を否定したい気持ちではなかった。
むしろ、
- 自分ならどう選ぶか
- 自分は何を大切にしたいのか
そういった自分の価値観とのズレを感じ取っていただけだった。
この時点で、
「他人軸で生きている人たち」を
少し距離を取って見ている自分がいた。
世の中は、思った以上にアンタッチャブルだ
考えてみると、世の中には
あまり触れられない“歪み”のようなものがたくさんある。
- 良い家に住む代わりに、車は最低限
- 借家でも、車だけは一級品
どちらが正しいという話ではない。
ただそこには、他人からどう見られるかという
承認欲求が強く影響しているように感じた。
見栄は、虚勢ではない。
多くの場合、それは不安の処理方法なのだと思う。
人は、
「自分は大丈夫だ」
「周りより劣っていない」
そう思いたくて、
一番見られる場所にお金やエネルギーを投下する。
見栄は悪ではない。でも…
見栄そのものが悪いわけではない。
むしろ、成長の初期段階では
モチベーションとして機能することもある。
ただ問題なのは、
見栄が、人生のハンドルを握ってしまうこと
それが続くと、
いつの間にか「自分がどうしたいか」より
「どう見られるか」で選択をするようになる。
では、自分の軸はどうやって信頼できるのか
この問いに、今日ようやく整理がついた。
自分の軸は、
気合いや決意で信じるものではない。
正しさでもない。
信頼の正体は、
積み重なった実感と履歴だ。
- 正解か分からない選択を引き受けた
- 違和感を無視せず、立ち止まった
- 比較しても、また自分の場所に戻ってきた
この繰り返しが、
あとから「信頼」になっていく。
境地は、目指して行く場所ではない
深みのある人や、言葉に重みのある人を見ると、
つい「どうすればそこに行けるのか」と考えてしまう。
でも、答えはとても地味だった。
- 説明しにくい選択を引き受ける
- 小さな違和感を放置しない
- 他人の物語を消費せず、自分に照らし返す
- 何かを手放しても、人生を閉じない
そうやって生きていると、
ある日ふと振り返ったときに、
「ここまで来ていたんだな」と気づく。
境地は、
到達するものではなく、後ろにできているものなのだと思う。
今日の気づき
今回の一連の思考を通して、
一番大きかったのはこれだ。
自分の感覚を、
否定しなくていい。
違和感は敵ではない。
それは、自分の価値観がちゃんと生きている証拠だ。
まだ途中でいい。
揺れてもいい。
でも、自分の感覚を雑に扱わず、
小さな選択を引き受け続けていこうと思う。
