今日は、少し「生きること」について考えた一日でした。
きっかけは、ニュースで知った二人の訃報です。
一人は、40代前半という若さで病気によって亡くなった方。
もう一人は、20代で自ら命を絶ったと報じられた方でした。
まったく別々のニュースです。
でも、同じ日にこの二つを知ったことで、妙に頭から離れませんでした。
二つの訃報が、同じ日に入ってきた
電車を乗り換える途中、ホームを歩きながら考えていました。
病気で亡くなった方は、病気にならなければ、もっと生きたかったのではないだろうか。
闘病生活も大変だったと思いますし、
自分の病気についていろいろと勉強されていたという記事も読みました。
まだやりたいことも、見たかった景色も、会いたかった人もいたのかもしれません。
一方で、もう一人の方は、若くして自ら命を絶ったと報じられていました。
もちろん、本当の心の内は本人にしか分かりません。
そこに至るまでには、外からは想像できない葛藤や苦しみがあったのだと思います。
この二人を単純に比べることはできません。
それでも、同じ日に二つの訃報を知って、
「生きるって、何なんだろう」
ということを考えました。
死が、少しだけ近く感じた
病気で亡くなった方は、大腸がんだったそうです。
自分も今、潰瘍性大腸炎という腸の病気と付き合っています。
もちろん、病気そのものは違います。
それでも「大腸」という、自分にとって身近な場所の病気だったことで、
死というものがいつもより少しだけ近く感じられました。
普段、自分が死ぬことなんてほとんど意識しません。
明日も仕事に行くと思っているし、
来週も、来年も普通にやってくるような気がしています。
でも、本当は誰にも約束されていない。
分かっているつもりだったことが、今日は少し違って見えました。
完璧ではない。でも、今あるもの
そんなことを考えながら、自分の今の生活を眺めてみました。
もちろん、完璧な人生ではありません。
仕事で嫌になる日もある。
思い通りにならないこともある。
将来への不安もあります。
それでも、仕事がある。
毎日帰る家がある。
妻がいる。
愛犬がいる。
温かいご飯を食べて、眠る場所があって、また朝が来る。
普段なら当たり前すぎて、いちいち考えません。
でも今日は、
「これって、かなりありがたいことなんだな」
と思いました。
人生は「思い出作り」なのかもしれない
自分は昔から、人生には最初から決められた意味なんてないと思っています。
「何のために生まれてきたのか」
と聞かれても、明確な答えはありません。
でも、それを悲観的に考えているわけでもありません。
むしろ最近は、
「人生って、究極的には思い出作りなんじゃないか」
と思っています。
この身体で、この時代、この場所にたまたま生まれてきた。
そして、いつか必ず終わる。
だったら、与えられた環境の中で、できるだけいろいろ経験してみたい。
旅行したり。
音楽を作ったり。
畑をやったり。
新しいことに挑戦したり。
妻と出かけたり。
犬と散歩したり。
うまくいったことだけではなく、失敗したことも、迷ったことも含めて、
「ああ、いろいろやった人生だったな」
と思えたら、それでいい気がしています。
自分が見境なくいろいろなことに手を出してしまうのも、たぶん根っこにはこの感覚があります。
身体が生きることと、心が生きること
今日、ChatGPTとそんな話をしている中で、ひとつ印象に残った考え方がありました。
身体が生きられることと、心が生き続けられることは、必ずしも同じではないのではないか。
身体は元気でも、未来を想像することが難しくなってしまうことがある。
逆に、重い病気を抱えていても、
明日を楽しみにしたり、
誰かと話したかったり、
まだ何かをやりたいと思ったりする人もいる。
身体に残された時間と、本人が感じている「生きたい」という感覚は、必ずしも一致しない。
この考え方が、自分の中に残りました。
そして、100歳を超える人が10万人を超えた
さらに今日、もう一つ印象的なニュースを見ました。
日本で100歳以上の人が、初めて10万人を超えたというニュースです。
これもまた、同じ日に見たことが妙に引っかかりました。
20代で亡くなった人。
40代で病気によって亡くなった人。
そして、100年以上生きている人。
同じ「人間の一生」なのに、与えられる時間はあまりにも違います。
そこで、また少しモヤモヤしました。
長く生きること自体が、一番大事なのだろうか。
もちろん、介護を受けているから「生きていない」という話ではありません。
誰かの助けを借りながらでも、
家族との会話を楽しんだり、食事を楽しんだり、明日を楽しみにしたりする。
それも間違いなく、その人の人生です。
だからこそ、「長生き」という言葉だけでは、自分が求めているものをうまく表せない気がしました。
「寿命」は、一つではないのかもしれない
そんなことを考えていて、自分なりに寿命を三つに分けてみました。
もちろん、医学的な分類ではありません。
あくまで、今の自分なりの整理です。
一つ目は、
「生命としての寿命」
心臓が動き、生命が続いている時間。
二つ目は、
「身体が動ける寿命」
自分の足で歩き、自分の身体を使って生活できる時間。
そして三つ目は、
「自分らしく生きられる寿命」
好きなものを好きだと感じたり、
誰かと話したり、
新しいことを面白がったり、
自分で何かを選んだり、
「次はこれをやってみたい」と思えたりする時間。
こうやって三つに分けてみると、自分の中ではかなりしっくりきました。
何歳まで生きたいか、ではなく
100歳まで生きたいかと聞かれたら、健康なら生きてみたいと思います。
でも、自分が本当に求めているのは、単純な年数ではないのかもしれません。
できるだけ長く歩きたい。
自分で食べたい。
自分で考えたい。
妻と話したい。
好きな音楽を聴いていたい。
新しいことを「面白そう」と思っていたい。
そして、
「次は何をやろう」
と思える自分でいたい。
そう考えると、自分が長くしたいのは寿命そのものというより、
「自分らしく生きられる時間」
なのだと思います。
残り時間は選べなくても
誰にも、自分の残り時間は分かりません。
100歳まで生きるかもしれない。
もっと短いかもしれない。
そこは、自分では完全に選べません。
でも、その時間の中に何を置くかは、少しは選べる。
誰と過ごすか。
何に挑戦するか。
どんな景色を見るか。
何を作るか。
何を面白がるか。
人生は思い出作り。
この考え方が正しいのかは分かりません。
今の自分には、ただ、しっくりきています。
そして今日、自分の中に残ったのは、
「何歳まで生きたいか」
という問いよりも、
「自分は、どんな状態で生きていたいんだろう」
という問いでした。
さらに言えば、
今、自分が「面白そう」と思えているものは何だろう。
元気なうちに行ってみたい場所はあるだろうか。
やってみたいのに、ずっと先送りしていることはないだろうか。
そんなことなら、残りの寿命が分からなくても考えられます。
明日から急に人生を変えるつもりはありません。
たぶん、いつも通りの日常が続きます。
ただ、
その日常の中で「次は何をやろう」と思える時間は、できるだけ長く残しておきたい。
今日は、そんなことを考えました。
